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東寺仏像残像記ー講堂の大日如来を中心に
大昔、東寺の秋期特別拝観に行った事があります。その観想を書いたのがありましたので、こちらに載せます。(個人の感想になりますが、ご参考になれば幸いです。)
青空がすんと心に入るある日、東寺の秋期特別拝観の共通券を求めた。
まず入った宝物舘では地蔵菩薩半跏像のそっとた垂れている裸足、とくにその腓が目に残った。腓から足指までの線が美しい。その足からふと谷崎の『刺青』が浮ぶ。またその腓からは『雪国』の葉子の腓がよみかえる。妙な事・・・地蔵菩薩半跏像の足から谷崎潤一郎と川端康成に出会うなんて。
華麗な仏像巡礼はもう講堂に至る。堂々に建てられた講堂に自分の手で門を開けて中に入る。その門は現世から内世へ向う扉のようである。
そして…入ったとたん目の前には遥かな光の波。暗いのに眩しい。窓格子から差し込む夕日である。その光の中で漸次に現れる密教浄土の世界。
「仏界易入魔界難入」とすれば、浄土の世界は仏界であり、私は今仏界にいるかもしれない。さすが「仏界易入」とも言えるだろう。
でもそうではないような気がする。
天部、菩薩、如来、明王、天部。その立体曼茶羅、まさに仏界と魔界の中心を支えるように見える大日如来の表情がその印のようである。
なんの華麗な仏像だろう。如来とは一切の欲を離れたと言われ、質素な姿であるとするが、曼茶羅の大日如来は違う。
「大日如来は宇宙そのもの存在を装身具の如く身にまとった者として、特に王者の姿で表されるのである」と云う。
しかし…ずっと眺めていたら目じりから悲しさ、切なさ、苦悩が段々伝えてくる。横顔はさらにそうである。既に悟を開く、俗人の日々の感情のも離れ、極めて浄化された精神であり知恵そのものだと云う大日如来、なおその手相。
めったに見る機会が無かった私にとって何より印象的だった大日如来の手相は「理と智, 衆生と仏, 惑いと悟りが元々は一つということを示す智拳印」と云う。
そうすれば仏界も魔界も元々一つの世界ではないか。それゆえ大日如来は仏界と魔界の境を離れるとせずに、その極端の両界に存在するのではないか。
悟る世界というのは仏界ではなく、もしかしたら魔界なのではないか。それゆえ、菩薩も我々も悟りを求めても叶い難い、「魔界難入」というのではないか。
考えて見ると、大日如来には地蔵菩薩半跏像の足から感じた繊細な綺麗さはない。悲しさがそのまま伝えてくるわけでもない。
むしろ強く見えるが…その底からどうも孤独、悲しみ、煩悶が表れる。だから…もっと切ない。それこそ「魔界」なのかもしれない。
急に窓が外れ、分散されて入り込んだ光が一気に中に差し込む。
丁度、展示が終わる時間になり窓を外したのである。人の影が消えたら間もなく講堂は闇の世界に沈むだろう。
光の時間と深遠の闇黒の時間が毎日繰り返す。人生も同じだろうか。講堂を出ると空はもう夕焼けである。
*東寺秋期特別拝観チラシとウィキペディアを中心に参考させていただきました。