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あなたの知らない京都

『古都』の中の京都ー祇園祭

葵祭が終わって、あっという間に6月になりました。と…なると…今度は祇園祭。今年の祇園祭の稚児さんが決まったというニュースもありました。
その祇園祭は『古都』の中でも詳しく書かれているので、今回の投稿では「京都の中の『古都』・祇園祭」についてご紹介いたします。

20230611・書き直しの再投稿になります。

『古都』の中の京都ー祇園祭

川端康成は『古都』連載の四日前に朝日新聞に載せられた「『古都』作者の言葉」でこのように語っています。
『古都』作者の言葉

「古都」とは、もちろん、京都のことです。ここしばらく私は日本の「ふるさと」をたずねるような小説を書い たいと思っています。( 中略) とにかく京都とその周辺を書いてみます。 人物や物語よりも風物が主になるかもしれません。ところが私は京都をよく知りません。準備や調査もゆきとどいていません。したがって、どんな作品になるのやら、見通しもついていません。新聞小説として不適当なものになるおそれは多分にありますが、その点はあらかじめおゆるしを願っておきます。また「古都」は「古都序曲」あるいは「古都序章」とするべきなのでしょう。(川端康成『古都』作者の言葉・朝日新聞・19611004)

『古都』は昭和36年(1961年)10月8日から昭和37年(1962年)1月27日まで、107回にわたって連載されました。『古都』は全9章で構成されていて、祇園祭は107回の中で13回を占めています。

川端康成は『古都』を書く前『虹いくたび』、『日も月も』、『眠れる美女』、『美し
と哀しみと』などの様々な作品で…既に京都を取り上げていましたが、『古都』は「作者の言葉 」通り<風物より人物や物語が主になる>作品に仕上がりました。
「私は戰後の自分の命を餘生とし、餘生は自分のものではなく、日本の美の傳統のあらはれであるといふ風に思つ て不自然を感じない」  彼にとって「古都」とは迷うこともなく「京都」であり、彼なりに戦後の『京都』を「日本の美」として作品 に取り上げた事が分かります。
 
「いつかは私も私の『源氏物語』を書いてみたい」 と願 った川端康成は『古都』を書くにあたって、 「私の『源氏物語』」をまたも心に封印し <京都が主役、物語はワキ役>にして書くことにしたのではないでしょうか。
 
しかも「京都とその周辺」という設定は言うまでもなく浮かび上がってくるのがあります。それは…『洛中洛外図』です。

<1500年代の京都>を描いたのが『洛中洛外図』とすれば、<1960年代の京都>を描いた『古都』は <洛中洛外図式物語>とも言えるでしょう。

そして…ここで注目したいのが「祇園祭」です。 祇園祭は『洛中洛外図』の右隻に描かれています。 その「祇園祭」、殊に宵山が『古都』に<一大変革>をもたらすのです。 

祇園祭宵々山・20070715
短夜を照らす提灯と闇の明かりで響く祇園囃子の宵山はまさに<真夏の夢幻 >そのものであり、だからこそ通俗的とも言えるでしょう。しかし、その宵山で生れて別れたふた子である千重子と 苗子の偶然の出会い、また千重子と間違った秀男と苗子の出会い、さらに新しく登場 する竜介と千重子の出会い、そのほぼ同時に重なる出会いが通俗どころか運命的であり 必然的で、美しい上に哀れをさえ感じさせます。
 
「京都は日本のふるさとだが、私のふるさとでもある。(中略) 私は京の王朝 の文學を『搖籃』としたとともに、京の自然のこまやかさを『搖藍』として育ったの であった」彼にとって「京都」は「やはり日本に一つの古都で、日本のふるさと」であったに違いありません。
 
 川端康成は『古都』の連載にあたって,その「日本のふるさと」に「洛中洛外図の」の金雲のようなオーラを加え、 仙界ともまたは心の「ふるさと」とも言える「京都」を人々の心に伝えたかったのではないでしょうか。
「こまやかな愛情とやさしい姿容の山に抱きつつまれた」数え切れない人々 の憧れの「京都という特権的な風土」に接近して、<夢のような金雲の中の 京都>を描写した『洛中洛外図』を…その京都に捧げるオマージュとすれば、川端康成 の『古都』は極めて純粋で「特別の聖なる都のオーラ」に捧げるオマージュ とも言えます。
しかし…そのオマージュが眠り薬によって書かれたという事はどういうこ となのでしょうか。
 
だからこそ..........祇園祭が導く<真夏の夢幻 >は『古都』のミステリアスな展開に…なくてはならない存在なのです。

祇園祭・19690713

祇園祭は『古都』の中でももっと重みを感じさせる部分であり、その分、祭に対する説明も細かく書かれています。

……祇園祭は、七月十七日の山鉾巡行の一日と、遠い地方からの見物の人たちは、思いがちで あるかもしれない。せいぜい、十六日夜の宵山に来る。 しかし、祇園祭のじっさいの祭事は、まず七月いっぱいつづいているのである。七月一日にそれぞれの山鉾町で、「吉符入り」、そして、はやしがはじまる……

『古都』が書かれたのは1961年10月8日から1962年1月27日までになりますが、その当時の雰囲気を感じる事ができる、1960年代の祇園祭の動画をみつけましたので、ご紹介いたします。

祇園祭・屏風祭

 その祇園会の日が、近づいて来た。 千重子の店でも、表の格子をはずして、支度にいそがしかった。

屏風祭

宵々山あたりから、町内の旧家や商店などで、その主が所有する美術品などを公開する「屏風祭(びょうぶまつり)」がおこなわれます。京の町家というと、うなぎの寝床と称されるように間口が狭く、奥へ深い造りが有名ですが、そういった風情をいまに残す町家が、通りに面した間を開放し、秘蔵の美術品を展示するのです。屏風を中心とした宝が多いため、屏風祭と呼ばれています。I 主な行事 - 宵山・屏風祭|KBS京都 (kbs-kyoto.co.jp)

千重子の店でも屏風祭の準備で忙しかったのでしょう。

 

祇園祭・祇園囃子

七月十七日の山鉾の巡行よりも、京の人は、十六日の宵山に、むしろ情趣を味わうようである。

まさに…そうだと思います。私のようなおばさんだって祇園ばやしが流れると、「宵山に行かなくちゃ」と思っちゃいます。しかも「宵山というのは京都の若者にとってクリスマスイブみたいなもん」という話もあるほど、宵山は世代を構わず人気があります。

意外にも山鉾巡行はテレビで観てもええと思うのも、ある意味不思議ですが…。

 

祇園ばやしは、かんたんに「こんこんちきちん」で通っているが、じつは、二十六通 りあって、それは壬生狂言のはやしに似、雅楽のはやしに似ていると言われる。 宵山には、それらの絆が、つらねた提灯の火でかざられ、はやしも高まる。

 

祇園囃子について興味深い記事を見つかりました。ここまで祇園囃子を取り上げた記事は初めてでした。

祇園囃子は「コンチキチン」の鉦(かね)の音色で知られるが、それは四条河原町を曲がってからの「戻り囃子」で、八坂神社へ向かう道ではスローテンポの「出鉾囃子(渡り囃子)」が奏される。各鉾、曳山でそれぞれ三十数曲もあるそうだ。

➡【浪速風】祇園囃子には深い意味がある - 産経ニュース (sankei.com)

その通り、「綾傘鉾に伝わる囃子は六曲に対して放下鉾に伝わる囃子は三十九曲」だそうです。

 

同じように聞こえる祇園囃子ですが、神様に捧げる時と町中の人を盛り上げてくれる祇園囃子はまたその音色が違うという事や各鉾、曳山によって違うという事も知らなかったです。来年は祇園ばやしを中心にその差を楽しんでみたいと思います。

祇園祭・七度参り

千重子は「御旅所」の前へ行って、蠟燭をもとめ、火をともして、神の前にそなえた。

『古都』で出る「七度まいり」は御旅所の前で行われますが、もともとは祇園・花街に伝わる祇園祭の風習「無言詣り」を川端康成が場所と参りの内容を少し変えて「七度まいり」として『古都』に取り入れたと考えられます。

七度まいり・古都

七度まいりというのは、御旅所の神前から、いくらか離れて行っては、 またもどっておがみ、それを七たびくりかえすのである。そのあいだ、知り人に会っても、 口をきいてはいけない。

無言詣り

神幸祭がおこなわれる17日の夜から、還幸祭の24日まで、祇園の神とおなじように鴨川をわたり、四条お旅所まで一日も欠かさず詣でて、願を立てる風習があります。もともとは、花街の芸妓・舞妓さんが、お座敷のあとで、恋愛成就を願って通いつめたことにはじまり、いまは、若い女性をはじめとした人々にひろまっています。お参りの途中で口をきいてしまうと、せっかくの願いが叶わないといわれています。そこから「無言詣り」と呼ばれているそうです。

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