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『光る君へ』のヒロイン・紫式部のお墓の謎

今回の投稿は紫式部のお墓についてご紹介させていただきます。nhk大河ドラマ『光る君へ』のヒロインである紫式部。その彼女の眠る場所は思いもよらぬ所でした。(こちらの投稿は2022年の投稿を添削した再投稿になります)

紫式部のお墓の謎

紫式部のお墓はまさか……あの紫式部のお墓が……こんな所に???と思うほど、意外な場所にありました。しかも、すぐ隣には小野 篁(おののたかむら)のお墓。まさに……謎。

お墓の入り口にもお二人のお名前が書かれた石碑が立っていました。なぜ、無縁にも思われるお二人が同じ場所で眠れる事になったのでしょうか。

紫式部のお墓の謎

「紫式部」は「狂言綺語(きょうげんきご)」を操る恋愛小説「源氏物語」を書いたため、地獄の落ちたと言われていたようです。それで、後世の源氏物語を愛した人たちが「紫式部」を救いたいと思い、閻魔大王の補佐役をしていた伝説を持つ「小野篁」を一緒に祀ることで、「紫式部」を供養したのではないかという説があります。

✅狂言綺語(きょうげんきご)とは道理に合わない言葉や、巧みに表面だけを飾った言葉を指す四字熟語

✅紫式部の亡霊が「『源氏物語』に狂言綺語を記して好色を説いた罪で地獄に落ちた」と告げたことから、その苦を救うとともに読者の罪障をも消滅させるために、法華経二十八品を各人が一品ずつ写経して供養した「源氏供養」も知られています。源氏供養 - Wikipedia

四辻善成・『河海抄』

『河海抄』(かかいしょう)は四辻善成によって室町時代初期に書かれた『源氏物語』の注釈書であり、紫式部の墓等の旧跡、物語と歌道の関係等『源氏物語』に関する様々な内容が書かれています。

『河海抄』には『源氏物語』の作家である紫式部に関する内容も含まれており、紫式部のお墓の事も「雲林院白毫院南小野篁墓の西なり」とおり、小野篁の墓の隣に紫式部の墓が存在した事を示しています。

とはいえ、100%紫式部のお墓かというと、それは誰も分からないという事。世の中には真実を掘り出さずにも文献や口伝でそれと信じ続けられる歴史がたくさんあるもんですね。

紫式部

紫式部は幼い事から賢くで感性豊かな少女だったようです。20歳以上の年の差結婚、しかしその夫である藤原宣孝の早すぎる死。残された娘を育ちながら、その悲しみを生まれつきの才能で昇華させ『源氏物語』を書いたとも云います。その悲しみは徐々に色を変えることになり、「悲しさと美しさと儚さ」が成りだす源氏物語のは日本だけではなく外国でも多くの人を魅了させました。

源氏物語に魅了された日本文学の巨匠たち

その中でも日本文学に欠かせない貢献者とも言えるドナルド・キーンさんとサイデンステッカーさんの「源氏物語愛」は広く知られています。

➡ドナルド・キーンの人生を変えた『源氏物語』

➡エドへの手紙:エドワード・サイデンステッカーの思い出 

お墓

誰も気づかぬ所だろうと思いきや、とてもきれいに管理されていました。

紫式部・百人一首

『百人一首』57番

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな

➡久々にあなたに会えたのに、あなたかどうかもはっきりしないうちに帰ってしまうのですね。雲に隠れてしまう夜中の月のように。

『新古今和歌集』には……紫式部は久々に長馴染みのお友達に会えたのですが、その友たちとゆっくり話す事も出来ず、月と競争するかのように帰ってしまった事を読んだと書かれています。急いで帰るお友達を雲隠れのお月様に繋ぐという発想が素晴らしいと思います。

紫式部のお墓・ムラサキシキブ

ムラサキシキブはシソ科の落葉低木で「Callicarpa japonica」,「Japanese beautyberry」とも呼ばれます。「ムラサキシキブ」という名前の由来は平安時代の女性作家「紫式部」に因んで付けられた名前で、もともとは「ムラサキシキミ」と呼ばれていたためと思わられます。「シキミ」とは重る実、つまり実がたくさんなるという意味だそうです。

ムラサキシキブの花言葉は「聡明」「上品」「愛され上手」で、10月17日、11月4日の誕生花です。

南天など赤い実をつける植物はよく見かける事ができますが、紫色の実を付ける植物は珍しいようです。

紫式部のお墓でたくさんの実を付けている植物の名前がムラサキシキブという事に気付いた時、ムラサキシキブをその場所に植えた方の純粋な心が感じられるような気がして、心が温まりました。

 

風が吹くと紫に見える揺れる枝が彼女によって作られた数多くの登場人物の揺れる心のように、反面、ムラサキシキブに守られているかのようにも見えました。

小野 篁(おののたかむら)

昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説を持つ人物ですが、実際の小野 篁は平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、書においても当時天下無双で,非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったといいます。

危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うようにと命じたそうです。

小野 篁・お墓

紫式部のお墓のすぐ隣になります。

お墓の隣には大きなザクロの木が植えており、たくさんの実が付いていました。紫式部がムラサキシキブに守られているかのように……小野 篁はザクロの木に守らられているのでしょうか……小野 篁とザクロの木を繋ぐものがあるのでしょうか...知ってる方がおられましたら教えてください。

小野 篁・百人一首

『百人一首』11番

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

➡海人の釣舟よ、この私は大海原の数えきれないほどの島を目指して船を漕ぎ出したと都の人々に伝えてください。

百人一首では「参議篁」という職名で書かれていますが、本名は小野 篁です。

小野 篁は二度遣唐使に選ばれ、唐に向けて出発するものの、船の破損などで、2度も唐に着く事ができず、日本に戻ります。しかし、3回目も遣唐使として船に乗る事になると、小野 篁は船に乗る事を拒否、それが嵯峨天皇の怒りを買う事になり、讃岐の隠岐へ流される事になります。

 

この歌は小野 篁が流刑になり、京都を離れる際……宮廷の人々(一説では親しい人々)に送った歌だと云います。

 

罪で流されるのに、それをまるで楽しい旅でも出るかのように歌うなんて、どんなにポジティブな人なんでしょう。その性格もあったからでしょうか...小野 篁は2年後、都に戻って参議まで昇進します。もしも...2年間、絶望的生活を送ったとしたら病死したかもしれない...とも考えると...前向きな性格は本当に大事だなと改めて感じました😊

(ちなみに、遣唐使は菅原道真により廃止になります。)

紫式部のお墓・アクセス

〒

交通案内

603-8165 京都市北区紫野西御所田町 (北大路堀川下る西側)

 市バス「北大路堀川」よりすぐ

➡京都市バス時刻表:北大路堀川 (kyoto.lg.jp)

参考サイト

今回の投稿は以下のサイトを参考にさせていただきました。

◆ 京都ミステリ-スポット 第11回 「紫式部のお墓の謎」(2013年~16年) - 航空経営研究所

◆ 小野篁 - Wikipedia

◆ 紫式部顕彰会

【番外編】2024nhk大河ドラマ・光る君へ