- 皆既月食×天王星食
- 神泉苑・20221106
- 神泉苑・本堂
- 神泉苑・鯉塚・亀塚
- 法成就池(ほうじょうじゅいけ)
- 心境の池
- 苑神泉苑・法成橋
- 神泉苑・善女龍王社
- 神泉苑・宝篋印塔
- 神泉苑・鎮守稲荷社
- 神泉苑観月会
- 祇園祭と神泉苑
- 神泉苑大念仏狂言
- 静御前の舞静御前の舞静御前の舞静御前の舞・御火焚祭(20221123)
- 神泉苑・アヒル
- 神泉苑・謡曲「鷺」
- 神泉苑・御朱印
- 神泉苑・ホームページ
- 神泉苑・アクセス
皆既月食×天王星食
昨日は皆既月食で盛り上がりました。日本で皆既月食と惑星食が同時に見られるのは442年ぶりで、安土桃山時代以来という事だそうです。次回…皆既月食と惑星食が同時に見られるのは322年後の2344年の土星食になるらしく、今の人にとっては今回の天体ショーが最初で最後…すこし切ない感じもしますが、きれいなお月様を見る事ができた事に感謝です。
子供も興味深々でカメラのシャッターを押していました。左がカメラ、右はスマホで撮ったお月様になります。
話しが長くなりましたが、今回は昨日の皆既月食に因んで、秋の観月会で広く知られている神泉苑をご紹介いたします。
二条城前…神泉苑の北門がある押小路通の並木。京都の町も少しずつ秋色になりつつあります。
神泉苑・20221106
神泉苑は延暦13年、桓武天皇の禁苑として造営され、 四季折々に華麗な行事が行われ、桓武天皇の行幸以来は歴代天皇が神泉苑で宴遊されたと云います。
一方、弘法大師空海の雨乞いや祇園祭の起源にもなった御霊会などの行事が盛んに行われた場所でもあります。
特に神泉苑の大池の橋である「法成就橋」は静御前と源義経が雨乞いを通じて出逢った場所としても知られています。

常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名づけられたと云います。
神泉苑・本堂
神泉苑・鯉塚・亀塚
本党の向こう側にあります。池を泳ぐ鯉亀に限らず、あらゆる生き物への感謝・供養のための塚であり、塚にはコインがたくさん置いてありました。
法成就池(ほうじょうじゅいけ)
法成就池は神泉苑の大池で、「御池通」の名前の由来でもあります。「徒然草」にも「『法成就の池にこそ』と離すは、神泉苑の池をいふなり。」と書いてあり、鎌倉時代以前からの呼び名である事が分かります。
心境の池
神泉苑には二条城付近から入ってすぐの所に「心境の池」と名付けられた小池があります。池に映る顔から自分の心の奥の感情が映し出されると云われています。

苑神泉苑・法成橋
平安時代に全国的にひでりとなり人々が苦しんだ時、弘法大師空海がチベットの善女龍王をお呼びして密教の修法により雨乞いをされたところ甘雨大いに降って弘法大師の法力が成就した(法力が成就→法成)これにちなんで「法成橋」と名付けられたと云います。
善女龍王のお守りを持って橋を渡りながら願いをするとその願いが叶うと言われています。
源義経と静御前
法成就橋は静御前と源義経が雨乞いを通じて出逢った場所としても知られています。
平安時代の末、大日照りとなり賀茂川や桂川の水も絶え、日本中の人々が苦しんだ。慣例によって神泉苑に各寺院の高僧が100名集められ、経を読み雨を祈ったが効験がなかった。
そこで、見目麗しい百人の白拍子を神泉苑に集め、後白河法皇の行幸を仰ぎ、九十九人が舞いを舞ったが 効験はなかった。「あと一人舞ったくらいで龍神様が雨を降らせるだろうか」という意見もあったが、法王は静御前に舞わせてみた。
静御前が舞いを舞ったところ、にわかに黒雲が出てきて、三日間大雨が降り続いて国土は安穏になった。
法王は感激されて、静御前に「日本一」の称号を与えた。➞静御前の舞
橋の上での静御前の雨乞いを見つめる源義経の姿が今にも見えるような感じがします。
神泉苑・善女龍王社
善女龍王社は神泉苑の中央の島に祀られています。善女龍王様は弘法大師空海様が 雨乞いのために北インドから御請来 (おまねきになった)神様であり、池の中におられます。
神泉苑・宝篋印塔
一切如来守護の集まりで、少しの礼拝でも菩提の種を授かることができると言われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)は貞享元年(1684年)、弘法大師空海の850回忌に当たり建立、今の宝篋印塔は享保2年に再興された2代目です。
神泉苑・鎮守稲荷社
本尊 矢劔大明神
御利益「除災招福」「商売繁盛」法成就池の東側、池畔にあります。
手に持った矢と剣で、参詣の人々を守護される神様です。
神泉苑観月会
観月法要、奉納演奏、観月会特別御朱印帳授与(8月22日~10月中旬、、庭園特別拝観(当日・9時~20時)などが行われます。
祇園祭と神泉苑
貞観5年(863)には疫病が大いに流行り、神泉苑にて 六柱の御霊を鎮めるため、朝廷による御霊会が行われた。 経典の演述や、雅楽の演奏、稚児の舞、雑技などが修された。その際は四つの門が解放され、 民衆が出入りし、天皇も御霊会を御覧になられた。
貞観の大地震や、富士山の噴火など、全国的な災いが相次ぐ中で、 貞観11年(869)には、全国の国の数、66本の鉾を立て、 祇園社(八坂神社)から神泉苑に御輿を送り、厄払いをした。
後世には、これが町衆の祭典として、 鉾に車を付け、飾りを施して 京の都を練り歩く、祇園祭へとなる。➞御霊会の歴史
神泉苑大念仏狂言
神泉苑狂言は明治36年に三条台若中からの奉仕出演と、神泉苑及び地域の人々の出演及び協力により「神泉苑大念佛狂言講社」が結成された。以来、ほぼ百十年にわたって狂言を執行しており、昭和58年6月1日には京都市の無形民俗文化財に登録された。当講社では、この民俗芸能を保存、継承するため神泉苑狂言として公開し、伝承公開活動に取り組んでいる。
なお、神泉苑狂言の公開・保存事業は、京都市文化観光資源保護財団の助成により、実施されています。
静御前の舞静御前の舞静御前の舞静御前の舞・御火焚祭(20221123)
神泉苑・アヒル
現在神泉苑には足を怪我した二羽のアヒルちゃんがいます。張り紙を見るまでには訳わからず、どうしたのかなと思いましたが、足のケガという事で少し安心しました。アヒルちゃん…早く治りますように。
神泉苑のアヒルちゃんにもっと知りたい方は➞アヒルの部屋をご覧ください。
神泉苑・謡曲「鷺」
醍醐天皇が神泉苑に行幸になった際、鷺(サギ)を見つけた帝は召使いにサギを捕らえる事を命じます。 召使いがサギに近づくとサギは逃げようとしましたが、 召使いが「帝の御意なるぞ」と呼びかけると サギは地にと留まったようです。 帝は大いに喜ばれ、鷺に「五位」の位を与え、以降、サギは「五位鷺」と呼ばれ、謡曲にも謡われるようになったと云います。